森博嗣の『笑わない数学者 - Mathmatical Goodbye』で色々考えてしまいました。
私、家庭教師のバイトをしてるんですけど、
最近、偶然にも理科で天球について教えています。
中学の教科書なんかを読んでると、
時々、あぁ、ズルいなぁ、と思います。
中学生の頃は、その「ズルさ」に気づきませんでした。
でも、大学生になると、その「ズルさ」に気づいてしまいました。
「私の知っている地動説」は「ズルい」と思います。
でも、「ガリレオの考えた地動説」は「ズルくない」と思います。
と、思います。
追記。(ここのエスペラント語訳はサボりました m(_ _)m )
コメントをいただいて、もう一度読み返しました。
それまでは、私には「不定」でした。
本を閉じて、いわゆる逆トリックは「収束」した、と、思います。
具体的に書くとネタバレになっちゃうので、抽象的でゴメンナサイ。
「シュレーディンガーの猫」という話があります。(少し残酷かも。。)
猫を、一定時間後に1/2の確率でランダムに毒殺する装置のついた、鉛の箱の中に入れます。
外にいる観測者には、箱を開けずにその生死は確認できません。
ここで、一定時間経過した後、箱は閉じたままだとします。
箱の内では、猫の生死は、生か死のどちらかに「収束」してるはずなのに、
箱の外の観測者にとっては、猫の生死は確かめようがないので「不定」である、という話です。
『笑わない数学者』では、私は「猫」といっしょに箱の「内」にいる観測者です。
私は「猫」を観察できるので、「生死」は収束してしまいます。
でも、「外」の観測者である助教授さんには、「猫」を見れないので、「生死」は不定です。
「内」と「外」は、このたとえでは逆です。(でも、内と外は定義の問題でしたね。。)
猫の「生死」は、問題の解です。内の人も外の人も確かめようとしてます。
そして、問題の解を確かめるための「猫」は『笑わない数学者』ということ、ではないでしょうか。
Mi pensas multajn aferon, kiam mi legis "Ne Ridanta Matematikisto" de Mori Hirosi.
Mi kromlaboras estiel hejminstruisto.
Lastatempe, mi okaze instruis pri ĉielglobo.
Kiam mi legas lernolibron de mezlernejo, mi fojfoje sentas, ke ĝi estas ruza.
Kiam mi estis mezlernejano, mi ne atentis la "ruzecon".
Sed kiam mi estas universitatano, mi atentis la "ruzecon".
La termov-teorio, kiun mi scias, estas ruza. mi pensas ĉi tiel.
Sed la termov-teorio, kiun Galileo pensis, estas ne ruza. mi pensas ĉi tiel.
Mi pensas ĉi tiel.